2018年09月20日

われわれ、私とだれか

自由というのは無法状態の完全に解き放たれたような状態、何一つ拘束のない状態を指す言葉として使われがちだが、私の場合は、自由という言葉をそのようには使うことがない。

というのも、自由というのは、ある道徳や倫理のようなものと結びついているのであって、そのような倫理と結びついていない自由というのは考えにくいからだ。そこには確かな拘束がある。倫理という拘束ゆえに自由が獲得される。

ここでの道徳というのは、たとえば日本という国家のような共同体のなかで道徳や倫理とされているようなものではない。

むしろ、そのような共同体的な道徳というものに対して懐疑的な姿勢を通して、他の共同体と共同体の空間同士が衝突しあう隙間や通路のようなものの上で発生するであろうものから見出しうる道徳が、自由へと繋がっている。

それは、他者という言葉と言い換えてもいいかもしれない。自由というのは、他者との出会いをとおして、その理解しあえない他者との間に見出されることになる道徳から導き出されるのではないか。

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